定見を失う政治
またまた、首相が政権を放り投げ・・・
福田首相が、突然の辞意を表明した。安倍首相についで二度目である。
一ヶ月前に「安心実現内閣」と名づけた内閣を発足させたばかりだった。この一月の間に何がそうさせたのか。国会招集日、国会の会期幅、選挙目当てのばら撒き補正予算案などなど、首相の思いとは違う展開となった。
このまま、これらを推し進めた公明党や麻生の「操り人形」として、首相の座にとどまることを良しとしなかったのではなかろうか。そんな思いを胸に秘めつつ、事ここに至っては、自民党総裁として、大連立を袖にした小沢民主党に乾坤一擲を喰らわせる・・・そのような計算が垣間見えた辞任会見でった。
佐伯啓思さん(京都大学教授)の興味深い論評が朝日新聞に掲載されている。
福田首相の突然の辞任は、今日の日本の政治の漂流を端的に示している。いや、漂流などというなまやさしいものでなく、政治という指導行為そのものの崩壊といってよい。今日の政治状況では、いったい、だれが首相という高度な政治的指導者になりえるだろうか。
むろん、政治の世界であるからには、たとえば公明党との不和や、自民党内部の対立といった水面下での確執はあったであろう。しかし、福田氏の辞任の基本的な理由はふたつであった。ひとつは民主党の対決姿勢によって、政治運営そのものが機能不全におちいってしまった、ということ。もうひとつは、近づく総選挙にどうしても勝たなければならない、ということである。
前者の政治運営の行き詰まりをもたらしたものは、いうまでもなく衆参のねじれ現象である。このねじれ現象がある限り、誰が首相であろうが、よほどの支持率をえられなければ、政治は機能しない。ではこの「ねじれ」を作りだしたものは何か。四年前の小泉氏による郵政選挙では自民が大勝し、昨年の参院選では民主が大勝した。つまり「民意」が大きく揺れ動いたからである。
では「民意」を大きく揺り動かしたのは何かといえば、確たる政策選択があったわけではない。四年前、自民党を大勝に導いたものは、「小泉劇場」という多分に情緒的なパフォーマンスであり、昨年の参院選で自民党の大敗を導いたものは、「消えた年金」というこれまた多分に情緒的な反安倍ムードである。
要するに、この数年の日本の政治は、二大政党制による政治選択という掛け声とはほど遠く、著しく情緒的で短絡的な、その場限りの「民意」に左右されるようになっている。小泉政治が、世論の支持を調達するために政治を「劇場化」したことは間違いなく、同時にまた、マスメディア(特にテレビ)がこの手法の共犯者となった。「民意」なるものは、マスメディアと連動した、大衆の情緒や不満の瞬間的発露という様相を呈するようになったのである。
こうなると、世論の支持率をえることのできる「人気者」が首相とならなければ選挙には勝てない。かくて、政治は「世論」なるものの情緒的な変動に翻弄されることになる。「世論」がある程度、安定しなければ、安定した政治は不可能となる。今日の政治の不安定を作り出したものは、基本的には、情緒的に浮動する「世論」であり、また、その「世論」や「支持率」に振り回されて定見を失った政治家なのである。
福田氏の政治手法は、小泉型パフォーマンスや大衆的支持をえる「劇場型」とは対極的なものであった。福田氏の役割は、小泉型パフォーマンス政治からの決別であったはずだが、今回の辞任は、それが「世論の支持」と「選挙」という「劇場政治」の前では全く無力であることを示すものであった。
福田氏の唐突な政権放棄は、昨年の安倍氏の場合とは異なっている。それは唐突ではあるが、それなりに計算されたものであり、確かに無責任ではあるが、無謀というわけでもない。
漂流しているのは民意も含めた日本の政治そのものである。
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